島津さんは現在、演歌の時は『島津亜矢』として、洋楽やポップスの時は『アヤ・シマヅ』と使い分けて活躍をされています。その活動の場が、ここに来て益々拡大しています。
島津さんが、その歌手人生の中で今回、腹をくくって大きく舵を切ったと言える、ソウルミュージックに挑戦するまでの道のりと、引き金になったターニングポイントについて調べてみました。
同世代の女性、あるいは新しい事に挑戦する方にとって、共感できる思いや、勇気をいただける点にも着目してみたいと思います。
島津亜矢さんのスゴイ経歴~現在
1971年生まれの島津亜矢さんは、いわゆる最強スペックの喉をお持ちであり 歌怪獣と呼ばれています
演歌の申し子として、民謡で鍛えたその喉を武器に、六歳になるまでに のど自慢大会でのトロフィーは100本以上!という圧倒的な歌唱力で総なめ状態。
並外れた実力のあまり、とある大会の出場にstopがかかることがあったそうなのですが、地元の視聴者からの要望が強く、わざわざ特別コーナーを組み出演されたという逸話を残すほどです。
幼い頃から現在まで、歌うことが大好きで 何よりも歌を最優先に、走り続ける島津亜矢さんが
演歌界に留まらず、多彩なジャンルの方々と共演されたり、カバー曲を歌ったり、見事なバージョンアップを遂げられています。
同期 門下生の坂本冬美さんや藤あや子さんとの親交があり、定期的に集まる仲だそうです。
人生最大の転換期
世界デビューのきっかけは、尊敬していると公言するアレサ・フランクリンさんの存在が非常に大きいようです。
英語の歌詞が全く分からないところから、指導を受けながら50歳を過ぎるこの年齢から挑戦を始められています。
その姿勢の根本には、伝統的な演歌への感謝と、努力を惜しまない姿勢と、敬愛するアレサ・フランクリンさんへの大きな憧れがあり、そこから見事なバージョンアップを成功させたと言えます。
“ソウルの女王”と呼ばれた、米国を代表する歌手アレサ・フランクリンさんの生きざまに触れ、衝撃をうけたことから、アレサが愛唱した「Think」の歌詞と同様に自分を解放し、力強く立ち向かうかのように人生最大の転換期となぞらえて、活動に邁進されたのでしょう。
演歌だけを歌っていた頃の島津亜矢さんが良かったという「演歌派」の方にとっては受け入れがたいという見方もあるようです。
普通の人に置き換えてみると、仕事をするなど社会に触れている面と、家庭で見せる顔、好きなことにエネルギーを注いでいる時など、人間は多面的な自分を持っています。そして その内面は、吸収してきたものによって変化していきますよね。それは、「面白さ」そのものであると思います。
一人の人間として、経験を重ねることで厚みを増し、限界を取り払って進むことを決断するのはとても勇気のいることです。島津さんは歌うことを通じてその姿を示しているのだな、と思えてきます。
演歌一筋の頃の島津さんを昔から めちゃくちゃ見ていた!というわけではないので、
すみません(;’∀’) なのですが、、、
アレサ・フランクリンの「Think」を歌い上げるその姿には、演歌の表情とは対照的な、真逆の島津さんを見つけることができます。
面白いです、というのが率直に言って的確かと思います。
心を誘い寄せられると言うのは、こういう時にしっくりきます。
あくまでも個人の見解ですが。
突然の別れ
ところが、本格的な世界デビューとしてのソウルミュージックの制作活動を決めた矢先に、家族として心の支えになっていた、愛犬との悲しい別れを経験することになりました。
あまりにも島津さんにとって 大きな存在であったため、別れを悲しむ時間をつくる必要がありました。その間、一時活動を休止しておられました。
そこからまた、しっかりと歩みを進めていくことを決めて現在に至っているそうです。
輝かしいキャリアを持たれている方ですが、ごくごく一般人の私から見て、共感できる事のなんと多いこと。
まだまだ、やることが無限だぜー!って同世代を勇気づけるような、そんな存在に思えてきます。
今後の思い
また、島津さんは熊本地震以降、豪雨災害に際しても被災地でのチャリティーコンサートの開催や寄付活動など、地元へ寄せる思いは強く、そのことが歌うことへの原動にもなっているようです。
同じ熊本県出身の八代亜紀さんが亡くなられたときも、ふるさとへの愛をつなげて行きたいと話しておられます。
幼い頃から育ててもらった熊本に誇りをもって、これからも多彩な魅力を放って活動される島津亜矢さんに注目していきたいですね。
今回、調査して改めて思ったことを最後に一つ。 英語の発音にしても、何にしてもなのですが 進化していく自分自身にワクワクする事って、
最強だなぁ~!と感じました。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
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